2008年10月の演奏会プログラムノート 曲目
Romantic Fantasy 持続する情熱 フレスコバルディからシューマンへ
C. P. E. バッハ ファンタジア 嬰ヘ短調
pp から ff まで5つの強弱記号が使われ、ポルタートも指定されていることから、本来はクラヴィコードのための曲でしょう。ほとんど同じ曲想の wq.80 はヴァイオリンを伴っています。
J. S. バッハ 無伴奏ヴァイオリンソナタ No.3 ハ長調 鍵盤用編曲 ト長調
バッハは自作の無伴奏ヴァイオリンの曲をアレンジして、クラヴィコードで弾いていたと言われています。彼自身の編曲は確認されていませんが、長男フリーデマンによる一種異様な雰囲気の第一楽章の鍵盤編曲が残っています。二楽章以降は今回のコンサートのために編曲した岩淵オリジナルなのですが、フリーデマンに比べればオーソドックスなため、ギャップがあるのはご愛敬、です。
L. v. ベートーヴェン ピアノソナタ 嬰ハ短調 「月光」
op.28 までは5オクターブのフォルテピアノで作曲されています。原題は "Quasi una Fantasia" すなわち「幻想曲風に」、「月光」は通称です。「不滅の恋人」である十四歳年下のジュリエッタ・グイチャルディに捧げたあげく振られたことでも有名な曲です。この失恋の後、難聴に悩みハイリゲンシュタットで遺書を書くに至ったわけですが、鬼畜かつ短絡的な性格は間違いなく彼の長所です。
G. フレスコバルディ パッサカリアにもとづく100のパルティータ
ひらめきと自己顕示欲を持ってイタリア鍵盤楽曲の集大成をなした究極の伝統主義者。当時時代遅れだったポリフォニーに普遍の幻想性を見いだしている点でバッハに比肩します。また、伝統主義者=保守主義ではない点についても同様で、両人ともミーン・トーンによる音楽的制約を嫌っていたようです。この100のパルティータ、彼にしては大変大がかり、かつひらめきだけに頼らず複雑で論理的な構造を持っています。
R. A. シューマン ウィーンの謝肉祭の道化「幻想的情景」
難聴のベートーヴェンに適した楽器、などと言う禅問答的な物が存在しないのは当然ですが、シューマンにあった楽器、と言うような大雑把な物も存在しないほうがよいでしょう。確かに1838年以降、シューマン夫妻がコンラート・グラーフ製作の6オクターブ半ピアノを所有していたのは事実ですし、この曲がそのピアノで作曲されたのは間違いないです。一方、楽器はパソコンや車のようにホイホイと買い換える物ではありませんので、世間一般には5オクターブのピアノも充分に残っていたと思われます。であればそのようなシューマンもあったのではないでしょうか。。使用する楽器の特徴を良く理解して音楽をすれば、今までになかった新しい可能性を見つけることができるかもしれないわけですから、難しいオーセンティシティーの議論はこの際脇に置いておきましょう。また、新しい可能性を見つけることこそが大変な喜びでもあるわけですから、なおさらです。今までになかったシューマンの響きを堪能していただければ幸いです。
佐藤 裕一
コンサートに寄せて
留学していた頃のお話です。日本から持って行った「ヨーロッパ退屈日記(伊丹十三著)」という一冊の文庫本、もしかしたら留学は退屈であると思って持参したのかも知れませんが、毎日のワインの後に少しずつ大切に日本の文字を読んだものでした。今日はその中の忘れもしない「正しいスパゲッティの食べ方」という項のお話です。時は1960年代、日本のスパゲッティのほとんどが「ケチャップを絡めてハムの小片を散らしたいためうどん」の時代です。
「まず、イタリーふうに調理したスパゲッティの前にきちんと座る。」
なるほど、きちんとですね。
「スパゲッティとソースを混ぜあわせたらフォークでスパゲッティの一部分を押しのけて、皿の一隅にタバコの箱くらいの小さなスペースを作り、これをスパゲッティを巻く専用の場所に指定する。これが第一のコツである。」
はい、作りました。
「さてここが大事な所よ、次に、フォークの先を軽く皿に押しつけて、そのまま時計回りの方へ静かに巻いてゆく、のです。」
だんだん食べたくなってきました。
「そして、フォークの4本の先は、スパゲッティを巻き取るあいだじゅう、決して皿から離してはいけない。これが第二のコツである。」
わかりました。それから少し練習のコツが続きスパゲッティが巻きあがりました。
「さて、あなたは今、スパゲッティを完全な紡錘形に巻きあげて、ほとんど芸術的、といってもいい悦びを感じています。あなたは、その芸術品を静かに口に運び、音もなく味わう。」
ここまでくると、もう食べないわけにはいかないです。明日はロベールのレッスンがあろうとなかろうと、今月の食費がもう底をついていようと、貧乏に贅肉と言われようと、真夜中のブリュッセルのアパートのキッチンで4回目の食事が実行移されるのです。言うまでもなく、またワインをお供に・・・。
すばらしく心を動かす文章の数々。読んだだけでよだれが出そうになるだけでなく、くだんのスパゲッティを実際作って食べたくなるのです。
当時の私の心に激しく訴えかける、豪華でいてなぜかわびしく、心の捩れるような感覚。これこそ文字のファンタジーではありませんか!音楽でこの幽玄な世界を表現できるかどうか・・・という挑戦にどうぞおつきあいください。
岩淵 恵美子