2001年10月の演奏会プログラムノート 曲目
Beyond the Fantasy チェンバロ・リサイタル
ファンタジアの語源は、ギリシア語の“phanthazo”(明らかにする)、またはラテン語の“phantasia”(空想、幻想)である。一方、音楽史上15世紀末から16世紀にかけてドイツなどで登場する“fantasia”が意味するところは、厳格な対位法に基づく「歌詞が無く、定旋律によることもなく、作曲家の想像力を駆使して作られた器楽曲」なのだそうである。決して自由に作曲されたわけではなかったようだ。
その後16,17世紀を通してヨーロッパ各地でありとあらゆるファンタジアが作られたが、驚くべきことに「対位法的手法に基づく器楽曲」と言うことをのぞけば、共通するスタイルは存在しない。定旋律に基づくもの、モテットの編曲、単一主題のもの、複合主題のもの、グラウンドによる変奏曲などもファンタジアと呼ばれていた。
今で言うところの「即興的な幻想曲」というジャンルとしては、トッカータがその筆頭に来ると思う。ただし、多くは主なる演奏前の腕慣らし的なものであったため、幻想的であることは求められてはいなかったかも知れない。また、シャコンヌやパッサカリアといった同一和声上の変奏曲も、即興性を必要とするジャンルとしてあげられる。
18世紀のドイツにおいて、ようやく本来の“phantasia”(幻想)がより自由になり、即興的要素をふんだんに取り入れて戻ってきた。晴れて「幻想曲」の誕生と相成るわけだが、あえて独断と偏愛でそのターニングポイントをあげるとすれば、やはりバッハの“Chromatisch
Fantasie”(半音階的幻想曲)になるように思う。加えて、シャコンヌなどの変奏曲にもその成果が取り入れられていく。これらをもって「幻想曲」百花繚乱の幕開けとなるのだが、今回はその幕開け前までがお題目である。その中の極めつけのお二人をご紹介したいと思う。
まずはジョン・ブル(John
Bull)、1562年生、1628年3月12日アントワープ没(66歳)。優表(やさおもて)の好事魔多しを地でいった鍵盤楽器奏者兼作曲家兼オルガン製作者。特にカノンの作曲で有名である。生まれはウェールズらしい。聖歌隊員、教会オルガニスト、聖歌隊員監督などを経て、1589年までにはケンブリッジ大学音楽博士号を取得するに至る。1586年以降、エリザベス1世晩年からジェームズ1世の時期にかけて、ロンドンの王宮付属礼拝堂のオルガニストでもあった。それでも1597年(35歳)、女王の推薦を得てロンドン・グレシャム・カレッジの音楽講師に選出されるまではかなりの貧乏だったようである。この職はかなりの収入源となったが、規則により独身であることが求められていたようだ。1607年、子供ができてしまったがために結婚せざるを得なくなり、自動的に講師も辞任することになる。まあ、現代から見れば人間的ではあるのだが、当人にとってはこれでは食っていけないと言うので、オルガン製作者としても活動していたようだ。ヘンリー王子の音楽団体に加わったり、若きエリザベス王女の音楽教師をしたりして過ごしていたのだが、1613年当年とって51歳、人生最大の難関にぶつかる。
姦通罪、ブルに帰せられた罪状である。お若いことでと喜んではいられない。ことの詳細は知らないが、ジェームズ1世をかんかんに怒らせてしまったことだけは確かである。国王に何の弁解もすることなく、海を渡りブリュッセルに逃亡してしまう。以後二度と母国に帰ることはなかった。彼の人生大半の作品は、これが元で散逸してしまうのだ。1617年から終生、アントワープ大聖堂のオルガニストの地位にあった。
ところでブルの肖像画(1589年)の左上に、どくろと交差した骨、砂時計が描かれている。これは錬金術師の「死にたいする生の勝利」を象徴している。当時エリザベス1世の個人的音楽家ではなかったにせよ、側に使えていたことに違いはない。その女王は自ら錬金術師のジョン・ディーを庇護していた。またプファルツ選帝候など、交流のあった人々も錬金術に興味を持っていたという。彼らから影響を受けた可能性は高い。現存する彼の手稿譜による謎カノンの中にも、そのことを示唆するものがある。
本日の主役であるジローラモ・フレスコバルディ(Girolamo
Frescobaldi)、1583年9月フェッラーラ生、1643年3月1日ローマ没(60歳)。バロック初期のカリスマ的天才鍵盤楽器奏者兼作曲家である。少年期を進歩的な音楽の中心地の一つフェッラーラで過ごし、宮廷オルガニストのルッツァスキに師事している。ちなみに大胆な和声を使用したことで有名なジェズアルドも同門である。かなり裕福な家系だったようだが、音楽以外の一般教養は頗る付きで恵まれていなかったようだ。そのせいか、彼の鍵盤楽曲は間違いなくバロックの最高峰と言えるものだが、声楽作品はとても同人物のものとは思えないほど没個性的である。同門のジェズァルドが声楽曲を得意としたのとはきわめて対照的である。彼を良く思わない人たちからは「声楽曲ではまともに歌詞に曲をつけることができず、珍しい単語となるとその意味が分からない」、さらには「読み書きについて無知なため自分の名前さえ正確に書けない」作曲家の一人に加えられている。
二十歳前にはローマに出てきてグイード・ペンティヴォーリョ(その後大司教になる)の庇護を得る。1608年には聖ピエトロ大聖堂のオルガニストに選出されている。この頃からすでに鍵盤楽器奏者としての評価は大変に高かったようだ。それと同じくらい身持ちが悪いことでも知られていた。ブルのように国を捨てるところまでは行っていないが、しっかりとその記録が前述のペンティヴォーリョの文書館に残されてしまっている。しかもブルと同様結婚は「できちゃった」婚である。
彼の作曲家としての成果が現れるのは1615年以降である。彼はよく言われるような進取の気象を持った音楽家ではない。長大なトッカータやポリフォニーを駆使した作品を得意とし、晩年まで作り続ける。何と言ってもモノディー全盛の時代、彼以外の音楽家はこのような形式を早々と見捨てていたのにである。イタリア鍵盤楽曲の集大成をなした伝統主義者と言えるかも知れない。この点に置いて、J.S.バッハがドイツバロック音楽の集大成をなしたのと比肩できそうだ。異なるのは、バッハがとことんまで論理性を持って成し遂げたのに対して、フレスコバルディはひらめきと自己顕示欲を持ってしたところであろうか。
その後、マントヴァやフィレンツェの雇用を経て、1634年には再びローマの聖ピエトロ大聖堂のオルガニストとして戻ってくる。彼の名声は今や国際的になっており、その希なる名演奏に加え、作曲もより円熟してきている。ウィーンのフローベルガーがその念願がかない、やっとの事でフレスコバルディの元で学ぶことができたのも1637年末からである。
時期的にはおそらくこのへんのことだと思うが、フレスコバルディの現代の演奏に関わる重要な出来事が記録されている。それは音律(テンペラメント)のことである。良く知られているように、16,17世紀の社会的音律は中全音律(ミーントーン)であった。その中でも簡便性から言って1/4コンマ中全音律といわれるものが主流を占めていたことは疑えない。フレスコバルディにしろその音楽生活の多くは中全音律によっていたと思われる。ところがこの晩年になって(もしくはその少し前から)変化があったようだ。1640年頃聖ロレンツォ教会のオルガンに対して、平均律にするよう申し出ているらしい。多勢なる社会的音律の中全音律に対して、個人的な平均律が採用されることはなかったのだが、彼の平均律に対する指向が外部に向けて出た唯一の事件として特筆すべきである。おそらく、中全音律の響きの美しさを利点として重要視するより、中全音律による転調の制約を欠点として問題視するほうが強くなったのだろう。今日前半の最後に演奏される、1637年のチェント・パルティータはその証拠のようなものである。この晩年の大作は中全音律では聴くに耐えない。中全音律による確信犯的な不協和音を指摘する向きもあるが、若年の作ならいざ知らず、54歳にもなって大作に対してそのようなこけおどしを期待して作曲をするとは思えない。分割黒鍵の楽器のためという考え方も、対象の楽器が少なすぎることから一般的ではない。前後の状況から考えて、フレスコバルディ晩年の平均律指向は考慮してよいと思われる。ただし、この平均律がいわゆる12等分平均律を示しているとは限らない。その件については別問題である。なお、時期的に見て弟子のフローベルガーが感化されたであろうことも充分考えられる。また、これと同様なことは後の時代、ラモーやバッハでも見ることができる。皆晩年になると音楽的制約を嫌うのである。そのようなわけで、今日のコンサートは中全音律ではない。かといって平均律を使うと困ってしまう曲も多いため、1/8コンマ不均等律でごまかしている。
コンサートに寄せて
ご本人が「音楽の押し売り」とおっしゃっていた故佐々木節夫さんからいただいたパトリック・コーエンによるショパンのマズルカのテープを大切にしている。私の、ここムジカーザでの最初のリサイタルを聴きに来て下さった後に送っていただいたものである。
なんでショパン?と思われるかもしれないが、「時代に関わらす言葉のない楽器から話を引き出す事にかけてはとてもすばらしいことである」ということを証明する演奏なのである。
今回も練習で何回もつまずくとこれを聴いてふんふんと一人納得していたのだが、とにかくこの言葉のない楽器から言葉を引き出す作業は楽しい。今回、17世紀の悪女ならぬ悪男(こういう言葉があるわけはないのだが)の話したかった言葉を、もしかしたらこういうお話・・と演奏でお伝えできれば幸せである。
こういう楽しさを教えて下さった佐々木さんとワクワクするおしゃべりができなくなってもう3年も経ってしまった。
岩淵恵美子