2000年10月の演奏会プログラムノート 曲目

encounter 出会いの音楽

18世紀のヨーロッパ音楽事情は、ことのほか複雑です。新規なことや珍奇なことが常に至るところで行われていました。その場限りのこともあれば、後々まで影響を及ぼした行為もあります。ただ、伝えられている事実は、ほんのわずかなことしかありません。その中から、ある音楽家の「音楽」や「考えていたこと」を追求するのは、現代に生きる私達にとっては大変に難しいことでもありますが、しかし、限りなく心を豊かにしてくれるものでもあります。今回は、そんな中から、C.P.E.バッハ(カール・フィリップ・エマヌエル)[1714-1788]とC.F.アーベル(カール・フリードリヒ)[1723-1787]を中心に採り上げてみました。

*****

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハJ.S.バッハ(ヨハン・セバスティアン)がケーテンのレオポルド候の宮廷楽長に任命されたのは1717年のことです。C.P.E.バッハは3歳、バッハ家がライプツィッヒに移ったのが1723年ですから、C.P.E.バッハにとっての幼年期は間違いなくケーテンでした。ケーテンのラテン語学校で学んでいます。C.F.アーベルの父クリスティアン・フェルディナント・アーベルはちょうどその頃ケーテンの宮廷楽団で、J.S.バッハのもとヴィオラ・ダ・ガンバを弾いていました。有名な無伴奏チェロ組曲は彼のために作曲されたと言われています。C.F.アーベルが生まれたのは1723年ですから、C.P.E.バッハとはすれ違いです。C.F.アーベルにとっての幼年期も間違いなくケーテンでした。彼は少なくとも14歳(または20歳)くらいまではケーテンで過ごします。その間に父クリスティアン・フェルディナントよりヴィオラ・ダ・ガンバを習ったと思われます。その後、かつての縁を頼りライプツィッヒのJ.S.バッハを訪ねて教えを請うことになります(どの程度の期間だったのかは明らかではありません)。が、その時点で二人が知己を得たのは確かでしょう。また、ともにJ.S.バッハから直接的な教えを受けていたことはその後の音楽活動にとって重要なことだったと思われます。ちなみに、後で出てくる第18子ヨハン・クリスティアン・バッハ(J.C.Bach)<1735-1782>は、何かを教わるにはJ.S.バッハは年を取りすぎていたようです。その後、C.P.E.バッハはフリードリヒ大王のベルリン宮廷(1740)鍵盤楽器奏者を経て、最終的には国際都市ハンブルク(1767)の音楽監督に落ち着きます。彼は「正しいクラヴィーア奏法試論」(1753,1762)や、「識者と愛好家のためのクラヴィーア曲集」に代表されるような、一見啓蒙的と見える音楽を作っていますが、その実内容は「難しすぎて一般には弾きにくい」と批判されるほどです。

カール・フリードリヒ・アーベル 一方、C.F.アーベルはドレスデンの宮廷楽団員(1743)を経て、1759年より活動場所をロンドンに移し、ヴィオラ・ダ・ガンバやチェンバロの奏者として活躍します。よく知られているように、J.C.バッハと親交を結び、年に十数回に及ぶ「バッハ=アーベル・コンサート」と呼ばれる演奏会を企画・運営します。その第1回目は1765年、スプリング・ガーデン(Spring Garden)で行われました。後に改名してヴォクスホール・ガーデン(Vauxhall Garden)として盛名をはせたところです。相棒のJ.C.バッハが死んだ1782年まで17年の長きにわたって、この演奏会は続けられたようです。世にいうところの公開連続演奏会のお手本のような存在と言って良いと思います。C.P.E.バッハもハンブルクで同じ様な連続演奏会を企画しましたが3年と持たずに終わりました。もちろん都市の性格の差も大きいとは思いますが、主催者の性格の差も大きいのではないでしょうか。
 さて、どうやらC.F.アーベルとC.P.E.バッハはかなり対照的な方向性を持っていたようです。ここにバーニーの『音楽史』に引用されたC.F.アーベルの言葉が残っています。「もしかりにセバスティアン・バッハと彼の驚嘆すべき息子エマーヌエルとが、商業都市の音楽監督などになるかわりに、幸運な偶然によってナポリとかバリとかロンドンといった大都会の劇場や聴衆のために、あるいはそこの一流の演奏家たちのために作曲を引き受けねばならぬようなことになっていたならば、彼らは疑いもなく自分たちの様式をもっと自分たちの批評家たちの理解の水準に合わせて単純化していたにちがいない。前者は無意味な技法や技巧を断念しただろうし、後者はあれほど物狂い的になったり、知恵をふりしぼったりせずにすんだだろう。そして両人ともにもっと大衆的でわかりやすい、そして軽快な様式で書くことによって盛名をはせ、かくて疑いもなく今世紀最大の音楽家になっていただろう。」(バッハ叢書より)

*****

 今日の演奏会にはもう一組の登場人物がいます。一人はご存じフランツ・ヨゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)[1732-1809]。そしてフランツ・クサヴァー・ハンマー(Franz Xaver Hammer)[1741-1817]、まったくと言って良いほど知られていない音楽家です。一時期ハイドンが楽長を務めるエステルハージ管弦楽団においてヴィオラ・ダ・ガンバ、及びチェロ奏者として活動していました。 ハイドンのチェロ・コンチェルトは、彼のために書かれたともいわれています。また、彼自身の手になるヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタが残されていますが、おそらくこれらの作品群はヴィオラ・ダ・ガンバのために書かれた、もっとも後期のものの一つです。なお、使用している楽譜は、当時の筆写譜(もしかすると自筆譜)で、ハンマー自身も活動していた北ドイツの都市シュウェーリン(Schwerin)で見つかったものです。譜例を見ていただければわかりますが、元々はヴィオラ・ダ・ガンバとチェロの二重奏の形を取っています。さて、そのようなわけで今日のヴィオラ・ダ・ガンバとフォルテピアノの演奏会。片や貴族の文化の中で発達してきた楽器、片や市民階級の中でこれから発達していく楽器。楽器が属している世代も文化も異なります。歴史的には、1750年頃から1770年あたりの期間だけ共存できた可能性がありますが、ほとんどすれ違いの楽器といえるでしょう。とはいえ、もともと弦楽器とフォルテピアノは音の相性は大変良く、スタイルさえ適格であれば、大変豊かな響きかつ良い効果を生み出すはずです。加えてC.P.E.バッハと、C.F.アーベルの二人。方向性は違えども、ともに「印象的な緩情楽章(C.P.E.バッハ)」、「豊かなアダージョ(C.F.アーベル)」を大きな特徴にしています。にもかかわらず、見事なまでにすれ違いの人生を演じております。どうせなら、彼らもこの場で出会っていただきましょう。

このコンサートのプログラム内容ははこちらです。

Home に戻ります