1998年の演奏会ツアープログラムノート 曲目
18世紀ドイツのファンタジア
ファンタジアという言葉の語源を調べてみると、古くはギリシア語の"phanthazo"(明らかにする)、またはラテン語の"phantasia"(空想、幻想)ではないかと思われます。音楽史上"fantasia"が登場するのは、おそらく15世紀末から16世紀にかけてのこと、現存する古いものとしては1520年頃ドイツのH.コッター(Hans
Kotter)による"fantasia"などが知られています。当初の意味は、「歌詞が無く、すなわち歌などの定旋律によることもなく、作曲家の想像力を駆使して作られた器楽曲」ということだったようですが、詳しくはわかっていません。また想像力を駆使して作られてはいても、厳格な対位法に基づくものであり、決して自由に作曲されたわけではありませんでした。
その後16,17世紀を通してヨーロッパ各地でありとあらゆるファンタジアが作られましたが、なんと驚くべきことに「対位法的手法に基づく器楽曲」と言うことをのぞけば、共通するスタイルは存在しません。定旋律に基づくもの、モテットの編曲、単一主題のもの、複合主題のもの、果てはグラウンドによる変奏曲などもファンタジアと呼ばれていたのです。
18世紀にはいると、ドイツではなぜか俄然状況が変わってきます。ようやく、本来の"phantasia"(幻想)がより自由になりしかも即興的要素をふんだんに取り入れて戻ってきたのです。晴れて「幻想曲」の誕生と相成るわけですが、あえて独断と偏愛でそのターニングポイントをあげるとすれば、やはりJ.S.バッハの"Chromatisch
Fantasie"(半音階的幻想曲)でしょう。彼はそれ以前にもいくつか"Fantasie"を書いてはいますが、対位法的要素から抜け出てはいませんし、即興的自由度も低く「幻想曲」という感じではありません。
さて、これをもって「幻想曲」百花撩乱の幕開けとなるのですが、中心になるのはJ.S.バッハの息子たちです。まずはカール・フィリップ・エマニエル・バッハ(C.P.E.Bach)、謹厳実直風な振りをして、そのくせ大変進取の気性に富んだ人物、J.S.バッハの次男坊です。当初フリードリッヒ大王の宮廷で鍵盤楽器を担当していましたが、懐古趣味の大王とはうまくいかず後にハンブルグに移ります。彼はその有名な著書「正しいクラヴィーア奏法」の中でこう述べています。「力強いとか、楽しいとか言ったパッセージにおいても、奏者は自分自身をそれらのアフェクトの中に入れなければならない。しかも、常に変化し続ける感情を呼び起こさなければならない。奏者がもっとも良く聴衆の心をとらえるのはファンタジーによってである。」と。いかにも、この多様な情緒を音楽的に表現することこそが彼の音楽なのです。
次に、順序が逆になってしまいましたが、J.S.バッハの長男、ウィルヘルム・フリーデマン・バッハ(W.F.Bach)について述べましょう。C.P.E.バッハが精力的に活動していたのと対照的に、彼、W.F.バッハは悲憤にやつれ、芸術家としての大きな業績とか成功などといった望みもなく、悲劇によって暗くされた晩年を送り、挙げ句の果てに忘れ去られて貧困のうちになくなります。まさに絵に描いたような暗い人生なのですが、その原因とも言える彼の過度な感情の表出、均衡の欠如、精神的不安定さというものは、裏を返せばとてつもないファンタジーでもあったわけです。
最後に、C.P.E.バッハの友人であり、J.S.バッハの最後の弟子でもあったヨハン・ゴットフリート・ミューテル(J.G.Muthel)についてお話ししたいと思います。「私は今大変よい精神状態にあります。音楽の構想はすでにあり、その上霊感を出すための幸せな時間を持っているからです。というのも私は精神がそのような状態でない時に仕事をするのは好きではないし、この澄み切った精神状態は稀にしか起こらないのですから。常に作曲し続けているような人達は、知らず知らずのうちに己の精神を疲れさせてしまい自分自身をもなくしてしまっているのではないでしょうか。もし精神を回復させて新たな気持ちになれたなら、その人は新鮮かつ強力な方法で表現するはずです。つまらない眠たい作品は少なくなるに違いありません。」これは、ミューテル本人が友人のC.P.E.バッハに送った手紙です。実に挑戦的であり当時としても自由で風変わりな発言ではありませんか。しかもそういうだけあって彼の残されている曲は、どれも一筋縄ではいかない、しかも珠玉の名作と呼びたくなるものばかりです。当時ですら知る人ぞ知る存在であったミューテルは、今でもJ.S.バッハ最後の弟子としてしか認識されていません。ひとえに彼の寡作のためであると思えますが、常人離れした生活ポリシーも影響していることでしょう。
そして今回のプログラムは彼らに加えその後継者とも言えるハイドンの音楽を取り上げてみました。大胆な不安定さ、均衡の欠如、さらには起伏だらけの感情表出に振り回される楽しさを味わってください。
リサイタルによせて
「しかしながら、非常にむら気の作曲家、ミューテルという名のすばらしい鍵盤楽器奏者を、ここリガでみつけました。彼は、冬のしかも道路が深い雪で覆われた時だけ作曲をします。そうです、それ以外の時期は、馬車が通るときのガラガラという音に、邪魔をされるからです。」これは当時リガに滞在していた、ヨハン・クリスチャン・ブランドの手記です。もう一つ。「私は今大変よい精神状態にあります。音楽の構想はすでにあり、その上霊感を出すための幸せな時間を持っているからです。というのも私は精神がそのような状態でない時に仕事をするのは好きではないし、この澄み切った精神状態は稀にしか起こらないのですから。常に作曲し続けているような人達は、知らず知らずのうちに己の精神を疲れさせてしまい自分自身をもなくしてしまっているのではないでしょうか。もし精神を回復させて新たな気持ちになれたなら、その人は新鮮かつ強力な方法で表現するはずです。
つまらない眠たい作品は少なくなるに違いありません。」これは、ミューテル本人が友人のエマニエル・バッハに送った手紙です。実に挑戦的であり当時としても自由で風変わりな発言ではありませんか。しかもそういうだけあって彼の残されている曲は、どれも一筋縄ではいかない、しかも珠玉の名作と呼びたくなるものばかりです。今日演奏するソナタの第2楽章などもまさにミューテルその人自身といえるような自由で風変わりな曲です。当時ですら知る人ぞ知る存在であったヨハン・ゴットフリート・ミューテル(1728-1788
リガ)は、今でもJ.S.バッハ最後の弟子としてしか認識されていません。ひとえに彼の寡作のためであると思えますが、常人離れした生活ポリシーも影響していることでしょう。そして今回のプログラムはこのミューテルと同じ時代を生きた、バッハの息子たち、およびその後継者とも言えるハイドンの音楽を取り上げてみました。大胆な不安定さ、均衡の欠如、さらには起伏だらけの感情表出に振り回される楽しさを味わってください。
岩淵 恵美子